岡山出身で後には京都で活動した明治の金工家、正阿弥勝義の銘があるムカデの自在置物が現存している可能性があることがわかった。
1898年に英国で出版された日本美術コレクションのカタログにムカデの自在置物が記載されている。ムカデは鉄製で大きさは17 1⁄2インチと記されており、銘は正阿弥勝義となっている(Michael Tomkinson, A Japanese Collection Volume 2, London, Allen, 1898, p. 62.)。
このカタログは1878年から日本美術の収集を始めたという Michael Tomkinson (1841-1921) のコレクションのカタログで、その一大コレクションは多くの展示に貸し出されたが、彼の死後間もなくロンドンでオークションにかけられたという。
https://www.bada.org/features/empire-sun-laura-bordignon
ムカデの自在置物は珍しく、一般に知られている作例は原田一敏「別冊緑青 vol. 11 自在置物」(マリア書房 2010年)に掲載されている個人蔵の作品一点のみであるが、英国ケントの Chiddingstone Castle のコレクションにも存在する。このコレクションは Chiddingstone Castle の所有者であった Denys Eyre Bower (1905-1977)により収集されたもので、日本美術のほかに仏教美術、古代エジプト美術なども含まれている。2005年に同コレクションの一部を借りてドイツで開催された展覧会の出品作品解説に、龍、鯉、蟹、孔雀、伊勢海老、昆虫とともに、ムカデの自在置物も確認できる(https://www.academia.edu/7748438/Aus_der_Wunderkammer_Chiddingstone_Castle)。
"signed in the more sophisticated sosho,running, script and with a silver seal attached to the undersurface" という記述から、百足の下面には銀の銘板があることがわかるが、誰の銘であるかは明らかになっていない。
以下のリンク先で、ムカデを含む自在置物が Chiddingstone Castle で実際に展示されている様子が見られる。
https://www.flickr.com/photos/tedesco57/17051824455/
https://www.flickr.com/photos/tedesco57/17050351002/
https://www.flickr.com/photos/tedesco57/17051821585/
これらの写真などから Chiddingstone Castle のムカデの自在置物は、本物のムカデよりもかなり大きいことがわかり、Tomkinson コレクションのカタログに記されたムカデの大きさである17 1⁄2インチ(40cm余り)に近いように見受けられた。
そこで、明らかになっていなかったムカデの銘について Chiddingstone Castle に問い合わせてみた。参考としてハリリ・コレクションの正阿弥勝義の作品の銘(Victor Harris, Japanese imperial craftsmen : Meiji art from the Khalili collection, London, British Museum Press, 1994 に掲載のもの)の画像を送った。現在、展示室を閉室中で、次の開室まで実際の作品での確認はできないとのことではあったが、以前に撮影された写真に正阿弥勝義の作品の銘によく似たものが確認できる、という返答があった。その写真はあまり鮮明ではなく、銘を正面から撮ったものではなかったが、確かにハリリ・コレクションの作品にもある「勝義」と読める銘板がみられる。
参考:清水三年坂美術館所蔵の茶入にある「勝義」の銘
https://www.flickr.com/photos/sushifactory/12247799284/in/album-72157640368761486/
ムカデの大きさは41.7cmで、やはり大きさの点からも Michael Tomkinson 旧蔵のものと同一の可能性があるという見解であった。また、ムカデは含まれていなかったが、同コレクションの日本の美術品には、Michael Tomkinson の旧蔵品とわかっているものがいくつかあるという。Denys Eyre Bower は最晩年の1977年に来日した際、修理のためにこのムカデを携えて来たという記録も残っている、とのことである。
正阿弥勝義は銀製の精巧な可動の骸骨も作っており、自在置物を作っていても不思議はないと思われる。Chiddingstone Castle のムカデは大きさこそ実物より大きいが、各部は非常に正確に作られている。もしこの作品が正阿弥勝義の作品だとすると、珍しいムカデをモチーフにしたことなども興味深い。これから作品の調査が進むことを期待したい。
平凡社『太陽』1984年1月号に、冨木宗行氏の父で高瀬好山工房の工人であった「宗好」を紹介する記事が掲載されている。「京の手わざ」と題されたその記事は、文・松本章男、写真・石元泰博によるもので、この号から新連載となっている。1983年10月の東京国立博物館の特別展「日本の金工」で初めて自在置物が紹介されてから間もない頃で、まだ自在置物や高瀬好山については現在ほど知られていなかったと考えられる。しかし、京都に生まれた松本章男は、高校時代の正月に見た、友人の家に飾られていた富木宗好氏の伊勢海老のことを鮮明に憶えていたのだという。
冨木宗好氏は、幼少時に父が早世したため高瀬好山のもとで育った。記事では、好山の作品を朴炭で研ぎ続ける毎日だったという少年時代のエピソードなども紹介されている。2016年「驚きの明治工藝」展図録には冨木宗行氏へのインタビューが掲載されているが、それと並んで冨木家の工人の姿を伝える貴重なものといえるだろう。
石元泰博による写真には、金象嵌の赤銅製の蝶、銀製伊勢海老の自在置物、宗好氏の手を大きく写したものもある。高知県立美術館には石元作品のアーカイブ活動を行う石元泰博フォトセンターが存在するので、こうした写真も何らかの形で展示される日が来るかもしれない。
「京の手わざ」の連載は1988年に學藝書林『京の手わざ―匠たちの絵模様』として単行本になっており、この記事も連載時と同じくカラー写真とともに収録されている。
“KOGEI Next” Exhibition 2022 に参加いたします。
2022年11月18日(金) ・19日(土)
November 18th & 19th Open11:00〜20:00 Free Admission
※入場無料(但し、トークショー開催時間中は有料チケットもしくは整理券をお持ちの方のみ入場可)
六本木ヒルズ「Hills Cafe / Space」
東京都港区六本木6-10-1 六本木ヒルズ ヒルサイド2F
営業時間/11:00-20:00(コロナ渦による変更の可能性あり)
Roppongi Hills Mori Tower Hill Side2F, Roppongi, Minato, Tokyo Prefecture.
Roppongi Hills 「Hills Cafe / Space」
出展作家
大竹亮峯/Ryoho Otake、織田隼生/Toshiki Oda、壽堂/KOTOBUKIDO、
塩見亮介/Ryosuke Shiomi、鈴木祥太/Shota Suzuki、野田朗子/Akiko Noda、
彦十蒔絵/Hikoju-Makie、本郷真也/Shinya Hongo、前原冬樹/Fuyuki Maehara、
松本涼/Ryo Matsumoto、David Bielande
川崎正蔵は川崎造船所の創業者で、日本初の私立美術館「川崎美術館」を創設した実業家である。その収集品図録『長春閣鑑賞 第六集』(國華社 大正3年)に一対の鉄製人物置物が掲載されており、「恐く明珍家の名匠の手になりしものなるべし」としている。
この作品で想起されるのは、原田一敏「自在置物について」『MUSEUM 東京国立博物館美術誌』第507号 で「人間の自在置物」として紹介されている、フランス・Robert Burawoy 氏蔵の「臥す人」「座す人」という一対の作品である。
その紹介によれば、「臥す人」「座す人」は鉄製で、臥す人」は頭のみ、「座す人」は頭と足が可動であるという。『長春閣鑑賞 第六集』掲載の鉄製人物置物の作品写真をあらためて見ると、立たせてある右側の人物の姿勢は、座っている方が自然なように思われる。左側の横たわる人物では確認できないが、右側の人物は頭と足が胴体とは別部品とみられ、可動するように見受けられる。大きさについて比較すると「鉄製人物置物」は身長四寸と記されており、ともに約12cmという「座す人」「臥す人」とほぼ同じである。
甲冑師の鍛鉄の技術が用いられたと推定されるような作品で、人物を象ったものは数多く見られるものではない。一対になっている作品となれば、より珍しいものであろうが、1883年に起立工商会社がルイ・ゴンス主催の展覧会に出品した作品も「一対の鉄製人物置物」であった。さらに、その翌年には同社社長であった松尾儀助が第五回観古美術会に「明珍作鐵人物置物 二個」を出品している。(前記事「ルイ・ゴンス主催の日本美術展で展示された起立工商会社出品の自在置物」参照)。
起立工商会社および松尾儀助による前記の出品作が、川崎正蔵が所蔵していた「鉄製人物置物」と同一作であるかは断定できないが、山本実彦『川崎正蔵』(大正7年)には「森村男と川崎翁とは明治六七年頃より親交を繼續し、義兄弟として桃園に義を誓ひし者なるが、此に松尾儀助氏を加へて、三兄弟と稱し、水魚も啻ならざる親交を結びたりき」とある。「鉄製人物置物」をめぐっては、Burawoy 氏蔵の「臥す人」「座す人」という作品が現存していることに加えて、川崎正蔵と松尾儀助のこうした関係もまた注目されるところである。
『長春閣鑑賞 第六集』(國華社 大正3年)
1883年に出版されたルイ・ゴンスによる『日本美術回顧展目録』 Catalogue de l'exposition rétrospective de l'art japonais は、日本美術の収集家らのコレクションを展示した展覧会の目録である。ゴンス主催のこの展覧会には、自在置物と思われる作品が出品されていたことが確認できる。
その作品は、Charles Haviland により出品されたミョウチン・ムネフサ銘の「関節のある蟹の形をした鉄製の香箱」(1)、および "Kosho-Kaisha"出品のミョウチン・ノブイエによる「鍛鉄製の関節のある2つの小像」(2)である。後者は起立工商会社による出品であろう。両作品とみられるものは、同じくルイ・ゴンスの著した L'art japonais. Tome 2 でも触れられており、後者については「工商会社はミョウチン・ノブイエ(16世紀)作の、足、頭、腕が動く非常に生き生きとした独創的な鉄製の人形2体をパリに送った」と記されている(3)。このことから、起立工商会社による出品は、人物像を自在置物として作ったものであったと考えられる。
この起立工商会社により出品された自在置物に関しては、同社社長であった松尾儀助が明治17年(1884)の第五回観古美術会に「明珍作鐵人物置物 二個」を出品(4)していることが注目される。こちらも2点同時に出品されており、前年の「日本美術回顧展」に出品されたものと同一作である可能性が考えられる。また、フランスの個人蔵の作品として「臥せる人」「座す人」の一対の自在置物の現存が確認されている(5)。この作品が同一のものであるかはわからないが、起立工商会社により出品された2点も、同様に対をなすように作られた作品であったのかもしれない。
起立工商会社の「日本美術回顧展」への出品の総数は4点で、人物像の自在置物以外の3点は掛物と屏風であった(6)。少ない出品の中に自在置物が含まれていたことには何か理由があったのだろうか。「日本美術回顧展」の前年にあたる明治15年(1882)、起立工商会社は第三回観古美術会に「鐵製螳螂置物」「銅製蟹置物」を出品しており(7)、これらも自在置物であった可能性がある。また、同会への明治天皇の行幸に際し龍池会から「明珍作鐵製蟹置物」が献上されたと伝えられており(8)、こうしたことと関連があるのかもしれない。明治17年(1884)の第五回観古美術会に出品された「明珍作鐵人物置物 二個」が、前年の「日本美術回顧展」の出品作と同一であったとすると、フランスでの展示を経たことは、国内での評価を高める効果があったとも考えられる。
自在置物は甲冑師の技術に基づくものであるが、同じく武具と関わる美術品といえる鐔などの刀装具と比べれば、その数は非常に少なく、日本国内でも目にする機会は限られていたと思われる。また、武具そのものである甲冑や刀剣のように由緒ある作が多く存在していたり、鑑定基準が定まっていたわけでもない。自在置物の精巧さは国内外を問わず人を驚嘆させるものであったには違いないが、その国内における美術品としての価値は、海外からの評価に依拠して高められていた部分が大きかった可能性は考えられるだろう。
註
Catalogue de l'exposition rétrospective de l'art japonais より。出品者にはサラ・ベルナールや、シャルル・エフルッシの名もみられる。
井戸文人編『日本嚢物史』(日本嚢物史編纂会 大正8年)に湯川廣斎という東京の人物が牙角彫刻家として紹介されている(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1869703/452)。大石芳斎の弟子で「尾崎谷斎の風を慕いて大成した」という。同書には大石芳斎についても記されている(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1869703/451)が、牙材で竹を模したものや、懐中時計の器械を彫り出したものを製作した話なども紹介されており「名人中の名人」と評されていたとある。
廣斎は後には「全彫り」の置物なども作り、猿を得意としていたほか、牙彫の龍、鯉においては「屈折自在、能く其物の特徴を發揮」したとあり、これらはおそらく自在置物であったものと思われる。海外の嗜好に合わせた製作であったため、国内にはその作品がほとんど見られないという。
明治23年の第三回内国勧業博覧会に牙彫の自在置物とみられる作品が出品されたことは、以前のブログ記事「非金属製の自在置物はいかにして現れたのか」で触れたが、廣斎の廃業は明治二十年頃とあり、牙彫の自在置物を作っていたとすれば、それより前であったと考えられる。
NHK 東博150年 知られざるモノがたり ~日本の至宝 大公開SP~
番組紹介より
創立150年を迎えた東京国立博物館の、知られざる収蔵品に秘められた「モノがたり」。8Kで東博の収蔵品を撮影、「教科書に載らない歴史の意外な1ページ」を紹介。
BS8Kなので視聴できる環境は限られますが、鉄鍛金の本郷真也さんと一緒にちょっと出ていて、自在置物についての話をしています。3月28日が初放送だったのですが、今のところ4月6、8、10日にも放送予定があるようです(時間は不規則ですが)。
時期は未定ですが、通常のBSでの放送予定もあるそうです。
2022/10/4 追記:10月8日(土)の午後9時からBS4KおよびBSプレミアムで放送、翌日からはオンデマンドの配信も予定されているようです。
ライト・バーカー《キルケー》("Circe" Wright Barker)をインターネット上で目にしたのは比較的最近のことであったが、ライオンを従える女性像というのが吉田博の《精華》を想起させた。
展覧会図録『生誕140年 吉田博展』(毎日新聞社 2016年)に掲載の年譜によれば、吉田博は1900年5月5日にニューヨークを出発し、5月12日にロンドンに到着している。「ロンドンではロイヤル・アカデミーやナショナル・ギャラリー、テート・ギャラリー、大英博物館などを繰り返し訪れて名画を学ぶ」とあるが、同年同月から始まったロイヤル・アカデミーの展覧会にはライト・バーカー《キルケー》が展示されていたようだ。同展覧会カタログには5月の第一月曜日から開催(The Exhibition opens the first Monday in May)とあり、ギャラリー No. III の141番に確認できる。
The Exhibition of the Royal Academy of Arts MDCCCC(Smithsonian Libraries )
https://library.si.edu/digital-library/book/exhibitionofroya00exhi
同展覧会カタログはロイヤル・アカデミーのウェブサイトでも公開されているが、こちらは会期などを記したページがみられない。
The exhibition of the Royal Academy, 1900. The 132nd.
『生誕140年 吉田博展』の稲富景子「吉田博《精華》について」による解説では、モチーフのモデルになったとみられる西洋絵画をいくつか挙げており、吉田博がルーベンス《ライオンの巣窟のダニエル》をロンドンで見た可能性があると指摘しているが、《キルケー》への言及はされていない。
『オデュッセイア』には、キルケーの魔法によって人間から狼や獅子に姿を変えられた者たちの従順さが描写されており、ライト・バーカー《キルケー》に描かれた狼やライオンの姿はそれに倣ったものと考えられる。上半身のみの半裸ではあるがキルケーが裸体の女性像として描かれ、ライオンが殊更に従順さを見せている点は、やはり《精華》に通じるものがある。もし吉田博が《キルケー》を見て《精華》の参考にしていたとすれば、『オデュッセイア』の物語などにみられるキルケーの描写についてどれほど知っていたのか、という点も興味深いところである。
明治天皇の崩御から間もなく出版された沢田撫松編『明治大帝』(帝国軍人教育会 大正元年)は、その事蹟を記し伝える内容であるが、明治天皇が自在置物に強い関心を持っていたことを示す逸話も紹介されている。
明治十五年に松平春嶽が同家伝来の龍の自在置物を天覧に供するために参内したこと(1)や、明治二十一年の日本美術協会美術展覧会に皇后が行啓した折には同家の龍自在置物、明治二十四年の日本美術協会春期展に明治天皇が行幸した際には、和歌山出身の金工家、板尾新次郎作の「屈伸自在鉄製鷹置物」が「御休憩所」に飾られたこと(2)、また、明治十五年に浅草本願寺で開催された観古美術会への明治天皇の行幸に際し、龍池会から「明珍作鐵製蟹置物」が献上されたこと(3)などは、明治天皇が自在置物に特別な関心を寄せていたことを示唆する例と考えうるものであったが、『明治大帝』で紹介されている「先帝陛下の御逸事」のうちの「妙珍作の龍と蟹」と題した文は、それを裏付けるものとみられる。
以下にその全文を示す。江戸時代に自在置物を製作した甲冑師一門の名として「明珍」とされるべき表記が「妙珍」となっているが、原文のままとしている。
妙珍作の龍と蟹
明治十六年今の美術協會の上野に移る前、日比谷大神宮の社務所に開館されし事ありき。先帝には每年必ず行幸遊ばされしが、此の時作州津山の城主松平確堂候の出品に妙珍作の龍あり、此の龍は長さ七寸位の鐵の打出しにて伸縮龍と云はれ、龍の鱗は一枚々々爪の先まで動き頗ぶる面白きものなりしが、先帝には甚く御意に叶ひしか、御休憩所に入らせられて後も德大寺侍從長にあの龍を今一度持ち來れと仰せられ、熱心に御覽ぜよれしより、佐野會長は確堂侯に申上げて献上の手續きをなせしに陛下は大に悅ばせ給ひ、直ちに其の儘御持歸り遊ばされしが、その後明治十八年築地本顧寺に開會されし折、骨董商某が妙珍作の精巧なる蟹を何處よりか手に入れ大得意にて出品せる折柄、宮內省より電話にて行幸の御通知あり、水盤に花の咲きたる枇杷の大木を活けこの幹の曲りし處に件の蟹を這はせけるが偖愈行幸あり御晝食の折、先帝ふと妙珍作の蟹にお目を止め給ひ御自身お立ち遊ばされてお手に取上げ給ふに、蟹は自由に八本の足を動かす面白さに、殊の外御意に入らせられ御卓子に持歸らせて頻りと、御覽あり「よく出來たもの哉」と幾度も/\仰せ給ふより、會頭は恐懼のあまり、時の宮相土方伯を經て某より進献致さすべき旨申上げしに、陛下には紙にも御包みなくその儘洋服の御隠しにお入れ遊ばされたり、地下の妙珍も感泣の涙に噎ぶならめと今も其の道の人々の語り草となれり。
沢田撫松編『明治大帝』(帝国軍人教育会 大正元年)https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/946470/165
「明治十六年今の美術協會の上野に移る前、日比谷大神宮の社務所に開館されし事ありき」とあるのは、日本美術協会の前身である龍池会により開催された第四回観古美術会のことであろう。この第四回観古美術会には松平確堂が《明珍作鐵屈伸龍文鎮》を出品したことが出品目録から確認できる(4)。文中では「伸縮龍」と表記されている、この龍の自在置物が「先帝には甚く御意に叶ひしか、御休憩所に入らせられて後も德大寺侍從長にあの記を今一度持ち來れと仰せられ、熱心に御覽」になったため、龍池会の会頭であった佐野常民は、これを松平確堂より献上する手続きをし、明治天皇はそのまま持ち帰ったと語られている。また、明治十八年には蟹の自在置物が献上されるに至ったことが述べられているが、これについては、明治十五年に第三回観古美術会への明治天皇の行幸に際し、龍池会から「明珍作鐵製蟹置物」が献上されたという冒頭でも示した話が誤認されたのかもしれない。「時の宮相土方伯を經て某より進献致さすべき」とあるのも、「土方伯」こと土方久元が宮内大臣を務めたのは明治二十年からであることと一致しない。
「妙珍作の龍と蟹」の話が当時の文書に記されたものではなく、関係者の証言に基づくものだとすれば、出版年の大正元年の時点で三十年近く前のこととなり、内容に誤りが含まれる可能性も高かったと考えられる。松平確堂が龍の自在置物を献上したことについても、松平確堂と同じく旧藩主であった松平春嶽が、龍の自在置物を天覧に供するために参内したという話と混同されている可能性もあるだろう。
このように、「妙珍作の龍と蟹」で語られている龍と蟹の献上の話には、当時の事実関係の正確な記述という点では疑問がある。しかし、いずれもその話の元になったとみられる事実が確認できることに加え、「明治天皇が自在置物の面白さに感嘆したことには明珍も感泣の涙にむせぶであろう」ことが「今も其の道の人々の語り草」となっている、と述べられている点に注目したい。つまり、「明治天皇は自在置物を好んでいた」という認識が関係者に共有されていたということになる。これは『明治大帝』出版当時のことであるから、信憑性が高いと考えられる。「妙珍作の龍と蟹」で語られている内容には事実関係の正確さについては難があるとしても、明治天皇が自在置物に特別な関心を持っていことを示すものであると結論づけてよいだろう。
註
アートフェア東京2022
3/11~3/13
古美術鐘ヶ江 <KOGEI Next> ホールE S040ブースにて作品を展示します。
《自在黄泉蛙》
サイズ L36 × W35 × H20 (mm)
素材 銀 18金 赤銅 真鍮 青銅 ネオジム磁石
アマガエルをモチーフとした自在置物。本体に家電などからリサイクルした銀を使用。腹部に内蔵したネオジム磁石により鉄製のものに吸着可能。