国立国会図書館デジタルコレクションにある鹿島増蔵『日本産業篤士伝』(内外商工時報発行所 1933年)所載の「高瀨好山傳」を入手しました。(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1213284/60)
これまで高瀬好山の伝記として知られていたのは好山工房で実際に制作に当たっていた冨木家に伝わった自筆履歴書だけで、全文を知ることも難しいものでした。この伝記はその人物像により迫ることができる文献です。スーツ姿の上半身の鮮明な写真も掲載されています。
この「高瀨好山傳」によれば、好山の父・高瀬哉武は鳥羽伏見の戦いや越後戦争にも参加した士族で維新後は陸軍に入り、名古屋で六年間勤務ののち金沢に帰郷したとのこと。好山はその長男として「金澤市櫻木町」に生まれて七歳から九歳まで父の任地であった名古屋市で過ごし、金沢に帰郷後「活眼達識の父君は、熟々時勢の推移に就て洞察する所あり、今後の日本は、何うしても産業の發達を計らねばならぬと平素力説されていたのが元となり(略)狩野派の津田南皐畫伯に師事するに至つた」とあります(津田南皐の経歴等については本文末にて詳述)。
ここで注目されるのは狩野派の絵師への師事の目的が「藝術家肌の畫家になる爲めではなく、實に繪畫を圖案化し、之を基礎として我が産業に縱事し、其の發達を計るといふことであつた」と述べられている点です。
東京国立博物館編『明治デザインの誕生 ―調査研究報告書〈温知図録〉―』(国書刊行会 1997年)に『温知図録』関連文献に記載のある人名として「阿部碧海(あべ・おうみ)」の項があります。碧海は旧加賀藩士で「明治維新に際し、士族授産のため金沢古寺町に五基の陶窯を築き、製陶場を興す」とあり、この阿部窯の画工の一人として好山が師事した津田南皐の名も記されています。また、同書所載の論考「図案と工芸職人」では石川県が『温知図録』の影響のもと早くから図案指導を取り入れていたことが示されています。以前に先述の冨木家に伝わった資料として高瀬好山直筆の鯉の図や鯉の自在置物の鱗の配列に関係するとみられる下図を目にする機会がありましたが、いくつか作例が残っている江戸期の明珍吉久の鯉の自在置物と比べて、好山の鯉がより高い写実性と同時に洗練された優美さも併せ持っているのは絵画を工芸に応用すべく学んだ好山の影響によるものではないかと思わせるものでした。昆虫の自在置物についても、蟷螂を例にするとより古い作品は翅が2枚なのに対し実物どおり4枚再現するほか、全体的な造形も写実性が格段に高まっています。さらに多種の金属を用いて着色を施すことで作品を実物に近づけていったことにも好山の意向があったとするならば、自在置物においても政府による図案指導が間接的に影響を与えていたと考えることもできるでしょう。
清水三年坂美術館所蔵の高瀬好山の鯉。
明珍吉久の鯉。
好山は当初神戸の貿易商池田清助の陶磁器部に勤め、金工部に移るとともに京都に移住し、自在置物制作の技術を持つ冨木伊助に金工を学んだ後に独立します(この辺りのことはマリア書房『自在置物』に詳述あり)。「高瀨好山傳」では独立後、日露戦争で生じた不況により苦境に陥ったことに触れられています。正阿弥勝義も同じ理由でパトロンとの関係が悪化したことが知られており、好山工房もまた順調な道程を歩んでいたわけではないことがわかります。京都市商品陳列所に出品していた昆虫類数点が皇太子(後の大正天皇)により「御買上」になったのを契機に苦境を抜け、その後も大正天皇の京都行幸の際には雀の置物、昭憲皇太后には伊勢海老、高松宮殿下には鉄製の蛇、といった御買上があったとのことで、皇室との繋がりを足掛かりに成功を収めていったことが察せられます。
ここで現在判明している大正以降の高瀬好山による博覧会出品や皇室に関連した制作の例を挙げてみることにします。
*パリ万国装飾美術工芸博覧会出品
大正14年開催。この博覧会では出品者の一部に政府からの制作費補助がなされており、高瀬好山も京都府における補助金支給者とされている。この補助は「打出シ化粧具入匣、金属」についてのもので、この作品は同博覧会において銅賞を受賞。別途京都府からの普通出品物として好山は「銅器 置物」を出品している(京都貿易協会『明治以降京都貿易史』 1963年 による)。
*皇室献上作品「瑞鳳棚」「飾花車」
昭和3年の昭和天皇の即位大礼に際し、高瀬好山も制作に参加。詳細はこちら。
*大礼記念京都美術館美術展覧会(昭和9年)出品
「幽谷之友置物」と題された蘭の置物を高瀬好山の名で出品。
芸艸堂編『大礼記念京都美術館美術展覧会図録』(芸艸堂 昭和9年)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1688543(インターネット非公開)
*京都美術工芸品展覧会(昭和4年11月開催)出品
銀製伊勢海老と鉄製の鯉を出品。
京都美術工芸品展覧会編『京都美術工芸品展覧会図録』(昭和5年 京都美術工芸品展覧会)国立国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1187673/30
マリア書房『自在置物』にはフランス大使の佐藤尚武もフランスへの土産に好山の作品を用いたことが述べられていますが、佐藤尚武は自身の回想録『回顧八十年』(時事通信社 1963年)でも好山について記しています。パリの日本大使館の接客用の部屋は三越が手がけたという日本風の装飾がされており、尚武はそうした意匠の部屋につりあい、外国の客人の興味を引くという意味でもふさわしい装飾品の例の一つとして「高瀬好山の繊細な銀細工」をあげています。佐藤尚武がフランス大使に任命されたのは昭和8年、好山が没するのは昭和9年なので、晩年までその作品が海外でも好評であったことや佐藤尚武にとって回顧録に記すほど印象深いものであったことが窺われます。
近年までほとんどその名が知られていなかった好山ですが、「高瀬好山傳」によれば京都金工会理事、京都市立工藝館協会幹事、美術工藝館協会幹事、帝國工藝会常議員、京都博覧会競技会の審査委員といった職を兼任していたとされており、『大礼記念京都美術館年報 昭和九年』には同館の総合美術展覧会の美術工藝の部における出品銓衡委員として高瀬好山の名も記されています。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1135478/36
もとより実業家の伝記集に取り上げられていることが示すように相応に成功した人物であったと言えるでしょう。
この伝記は最後に好山の実弟の高瀬五畝に触れています。高瀬五畝は荒木寛畝に師事した日本画家で文展・帝展にも入選しており、東京市芝区住であったとのことです。工芸の改良及び産業発展のために絵画を学んだ好山との対比も興味深いところです。
東京文化財研究所『美術画報』所載図版データベースでその作品が確認できます。
高瀬五畝 椋鳥の図
http://www.tobunken.go.jp/materials/gahou/211020.html
高瀬五畝 芙蓉小禽図
http://www.tobunken.go.jp/materials/gahou/209225.html
・高瀬好山が師事した絵師「津田南皐」について
津田南皐(つだ なんこう)、本名は重喜。師は加賀藩御抱絵師の佐々木泉龍(1808-1884)。「金沢藩士の家に生まれ、幼時より狩野、四条派の画を学び、特に歴史画と俵屋風の草花を描いた」「石川県絵画品評会に『道元放鶴之図』『松ニ猿猴之図』の二点を出品する」。生没年不詳だが京都で86歳で没したといい、大正五年(1916)頃が晩年に当たる。
以上は金沢市教育委員会新加能画人集成編集委員会編『新加能画人集成』(金沢市 1990年)の記述に拠る。
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