福田源三郎『越前人物志』(明治43年)の明珍吉久の項に一部抜粋のあった佐野常民による演説の要領を入手しました。岡部宗久編『内外名士日本美術論』(鼎栄館 明治22年)に収録されています。
この演説は明治21年に龍池会が日本美術協会と改称してから初めて開催された展覧会の褒賞授与式におけるものです。岡倉天心らの海外視察の報告により甲冑師一派明珍の作品の国外での高評価が注目されたとみられるこの展覧会には自在置物を含む複数の明珍の作品が出品されており、佐野常民はその明珍を例にあげて日本美術について語っています。
展覧会に出品された越前松平家伝来の明珍吉久作「魚鱗ノ甲冑」については「其製作ノ妙ナル眞ニ優等ノ美術品ナルハ誰カ之ヲ否ト言ワンヤ而シテ其材料ハ黯黒色ノ鋼鐵ノミ以テ美術品タルノ價位ハ材料ニ關セザルヲ知ルヘキナリ」と述べ、美術品としての価値はその素材の価値によらないという意見を表明し、さらに「美術ハ國光ヲ發揚スルモノナリ國富ヲ増殖スルモノナリ」とした上で、岡倉天心が海外視察において目にしたと思われるサウス・ケンシングトン博物館の明珍作の鷲について「其初ハ尋常一様ノ鋼鐵ナルニ名工ノ手ヲ經テ優逸ノ美術品トナレバ此ノ如キ高價ヲ發ス美術ノ國富ヲ増殖スル實ニ鴻大ナリト謂フヘシ此ノ如キ名品ノ海外ニ出シハ遺憾ナリトハ雖モ之ニ由テ日本美術家明珍ノ名宇内ニ顕レ従テ日本ノ光輝ヲ發揚セシハ一大快事ナラズヤ」と述べており、高価な材料を用いることなく高額な美術品としての評価を得たことに注目していることが窺えます。明珍を「日本美術家」と表現しているところも興味深い点です。
この「サウス・ケンシングトン博物館の鷲」について、この演説では越前松平家の家臣が賜ったものが僅かな金額で売却され、その後に同博物館に高額で購入されたもので「魚鱗ノ甲冑」と同じ作者によるものとしています。しかし、実際にはこの鷲は明珍作と伝えられてきたもののそれを示す銘などはなく、「魚鱗ノ甲冑」の作者である明珍吉久によるものではないとみられます。
佐野常民が両者をともに明珍吉久の作としたことについては以下のような理由が考えられます。"The mechanical engineer. Vols. vii and viii" (1884)には英国人フランシス・ブリンクリー(河鍋暁斎とも交際のあったことが知られる)が3500ドルと評価された「ミョウチン ムネアキ」作の龍の自在置物を所有している、との記述があり、その龍は越前松平家の旧家臣の家から出たものとしています。越前松平家の明珍の作品に関する異なる話を意図的に混同することにより、佐野常民は古美術の海外流出を戒めるとともに、そうして海外に渡った作品は日本の国威を発揚するものにもなり得る、という両面を効果的に語ろうとした可能性が考えられるでしょう。
またこの明治21年の日本美術協会展覧会には明珍吉久作とみられる龍自在置物も出品されています。この展覧会に先立つ明治15年に、同じく明珍吉久作とみられる龍自在置物一点が松平春嶽により明治天皇に献上されており、日本美術協会が皇室との繋がりを強めていったことを考えるならば、海外で高い評価を受けたサウス・ケンシングトンの鷲と明珍吉久を結びつける狙いがあったことも窺えます。
文字が小さいですが、"The mechanical engineer. Vols. vii and viii" (1884) のブリンクリーの記事。
「フレンキクン」の呼称で『河鍋暁斎絵日記』に描かれたブリンクリー。
東京国立博物館蔵 明珍宗察作の龍。
ブリンクリーが入手した越前松平家の「ミョウチン ムネアキ」の龍はこれよりも小さいもの。もし明珍宗察の龍であったとすれば、この動画の龍も越前松平家に関係したものであるかもしれません。
ブリンクリーによる越前松平家の龍自在置物の購入は、大名家からの自在置物の流出の実例を示す貴重な例といえるでしょう。"The mechanical engineer. Vols.vii and viii" の出版年からみて、明治17年以前にはこの作品を入手していたと考えられます。明治16年の第四回観古美術会には津山藩旧藩主の松平確堂により「明珍作鐡屈伸龍文鎮」という自在置物とみられる作品が出品されています。こうした大名家からの自在置物の優品の流出や公の場での展示は、このような作品の美術品としての認知を広め、その評価を高めていくことに繋がったのではないかと思われます。
また明治18年のニュルンベルク金工万国博覧会には海老、カマキリの自在置物とみられる作品が龍池会会員の斎藤政吉(明治26年シカゴ万国博覧会における板尾新次郎の鷲自在置物の出品人と同一と思われる)により出品され、金牌を授与されていることも見逃せない点です。
前述のとおり明治21年の日本美術協会展覧会により、国内でも自在置物が美術品として本格的に注目されることになったとみられるものの、明治26年のシカゴ万国博覧会に鷲の自在置物を出品した板尾新次郎、明治33年に龍の自在置物がパリ万国博覧会に出品された可能性がある高石重義らはそれぞれ鋳金工、刀身彫刻の出身であり、甲冑師とは直接関係のない工人であったと考えられます。
それにもかかわらず、彼らの作品は多くが明珍作として販売されたとの記録が残っています(その記録がブリンクリーの著書にあることも興味深いところです)。自在置物が甲冑師による美術品として注目され、輸出品としても期待されたが故に、当時すでに力を失っていた明珍派の甲冑師に代わってその製作に当たったのが彼らであったのであろうことが窺えます。彼らの在銘作品の少なさから見て、明珍作として販売された作品には作家本人の銘は入れられていなかったと推測できますが、それによってこれらの作家について不明な点が数多く残される結果になったのだとすれば残念なことです。
以前触れた鈴木長吉の青銅の龍自在置物が大作であるにもかかわらず博覧会等への出品の記録がないことも、自在置物には甲冑師による美術品として鉄打出しによる作品であることが望まれたからかもしれません。そう仮定するならば、それは後に高石重義によって非常に良く似た鉄製の龍が制作されたことの理由ともなり得るでしょう。板尾新次郎は明治28年の第四回内国勧業博覧会に銀製のオウムの自在置物を出品していますが、明珍作として販売された作品については鉄製で且つ古作に倣ったモチーフに限られていたものと思われます。
このように当時「明珍」が自在置物の代名詞のようになっており(そのためにこうした作品に独自の名称が与えられなかったことも考えられるでしょう)鉄製であることが望まれていたとするならば、自在置物に銀、銅、四分一、赤銅など多種の素材を用いて写実性も高めた作品を好山銘、あるいは工房の工人銘で多数送り出した京都の高瀬好山にはそうした制約に縛られることがなかったという点についての評価があるべきでしょう。その制作技術が一門に代々受け継がれたものであることも、一代限りであったとみられる板尾新次郎、高石重義らと好対照を成しています。より国策に近い立場で万国博覧会などへの出品を果たしたこれらの作家の方が不明な点が多いために見過ごされるところですが、こうした視点から見るならば高瀬好山の存在の特異性が際立つといえます。
佐野常民自身も佐賀藩の旧藩士であったように当時の社会階級の上層の多くが武士階級出身であり美術関係者もまたそうであったことを考えるならば、武士と密接な関わりのあった甲冑師の技術が用いられた自在置物は海外に誇る美術品として望ましいものであったと推測できます。またそうであったが故に、時代が進みそうした階級の美術行政への影響力が弱まったことは自在置物が急速に忘れられていく一因となったとも考えられます。多くの作品が海外に存在することは一面では作品の海外流出ですが、佐野常民が意図した通り自在置物が輸出品として成功を収めたことも示しているといえます。しかし輸出品として注目されるようになった当初からその制作の主体は甲冑師の手を離れており、「甲冑師による美術品」とするには矛盾を抱えたものでした。その矛盾が自在置物の制作技法や素材に見えざる制約を課し、さらにその作者に匿名性を求めたとするならば、それは国内における美術品としての位置付けを曖昧にすることにつながり、そのこともまた自在置物が長く一般には知られないものになってしまった理由と考えることができるでしょう。
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