前回のブログ記事は、第三回観古美術会が開催されたときに明治天皇に蟹の自在置物とみられる品が献上されたことについてであったが、『観古美術会聚英 解説』(博物局 明治13年)に第一回の観古美術会に自在置物が出品されていたことが確認できる。亀井茲監出品の「鐵造蝦蟆文鎭 明珍吉久作」がそれであるが、「大サ一寸二分許」「評ニ曰ク肖形真ニ逼ル四足機ヲ以テ屈伸ヲナス甚奇巧鐵色古雅ナリ銅ヲ以テセスシテ鐵ヲ以テ造ル一段ノ味アリ」と記されていることから、四肢が可動のカエルの自在置物であることがわかる。
明珍吉久のカエルの自在置物の作例としては、2018年にクリスティーズのオークションに出品された後、その翌年2019年にはボナムズのオークションに出品されたものがある。箱書には「文鎮」と書かれており、全長は4.1cmで、「大サ一寸二分許」と記されている亀井茲監出品のものは同様の作であったかもしれない(1)。
出品者の亀井茲監(かめいこれみ)は津和野藩の最後の藩主だが、第四回観古美術会に自在置物とみられる「明珍作鐵屈伸龍文鎮」を出品した(2)松平確堂も津山藩の藩主であった。こうした旧藩主らが所蔵する自在置物は、観古美術会を主催する龍池会の日本美術協会への改称後も、その展覧会に出品されることになり、自在置物が多くの人の目に触れる機会をもたらしたと考えられる。亀井茲監による出品は、そうした流れの最も早い時期の例として注目される。
註
明治21年、前年に龍池会から改称した日本美術協会による初めての展覧会において自在置物が数点同時に出品されたことは以前から触れてきました(こちらの記事など)。今回はそのときの出品物を撮影したとものとみられる、東京国立博物館研究情報アーカイブズで閲覧可能な『美術会列品写真帖』について。
明治期を中心として自在置物および自在置物と思われる作品の博覧会、展覧会などへの出品記録をまとめてみました(暫定版につき適宜加筆修正していく予定)。
pdf版も作成しました。こちらも随時更新する予定です。
第三回観古美術会への工商会社による出品「鐵製螳螂置物」「銅製蟹置物」追加(2019/11/05)。
(Last updated: 06 Feb. 2021)
福田源三郎『越前人物志』(明治43年)の明珍吉久の項に一部抜粋のあった佐野常民による演説の要領を入手しました。岡部宗久編『内外名士日本美術論』(鼎栄館 明治22年)に収録されています。
この演説は明治21年に龍池会が日本美術協会と改称してから初めて開催された展覧会の褒賞授与式におけるものです。岡倉天心らの海外視察の報告により甲冑師一派明珍の作品の国外での高評価が注目されたとみられるこの展覧会には自在置物を含む複数の明珍の作品が出品されており、佐野常民はその明珍を例にあげて日本美術について語っています。
展覧会に出品された越前松平家伝来の明珍吉久作「魚鱗ノ甲冑」については「其製作ノ妙ナル眞ニ優等ノ美術品ナルハ誰カ之ヲ否ト言ワンヤ而シテ其材料ハ黯黒色ノ鋼鐵ノミ以テ美術品タルノ價位ハ材料ニ關セザルヲ知ルヘキナリ」と述べ、美術品としての価値はその素材の価値によらないという意見を表明し、さらに「美術ハ國光ヲ發揚スルモノナリ國富ヲ増殖スルモノナリ」とした上で、岡倉天心が海外視察において目にしたと思われるサウス・ケンシングトン博物館の明珍作の鷲について「其初ハ尋常一様ノ鋼鐵ナルニ名工ノ手ヲ經テ優逸ノ美術品トナレバ此ノ如キ高價ヲ發ス美術ノ國富ヲ増殖スル實ニ鴻大ナリト謂フヘシ此ノ如キ名品ノ海外ニ出シハ遺憾ナリトハ雖モ之ニ由テ日本美術家明珍ノ名宇内ニ顕レ従テ日本ノ光輝ヲ發揚セシハ一大快事ナラズヤ」と述べており、高価な材料を用いることなく高額な美術品としての評価を得たことに注目していることが窺えます。明珍を「日本美術家」と表現しているところも興味深い点です。
この「サウス・ケンシングトン博物館の鷲」について、この演説では越前松平家の家臣が賜ったものが僅かな金額で売却され、その後に同博物館に高額で購入されたもので「魚鱗ノ甲冑」と同じ作者によるものとしています。しかし、実際にはこの鷲は明珍作と伝えられてきたもののそれを示す銘などはなく、「魚鱗ノ甲冑」の作者である明珍吉久によるものではないとみられます。
佐野常民が両者をともに明珍吉久の作としたことについては以下のような理由が考えられます。"The mechanical engineer. Vols. vii and viii" (1884)には英国人フランシス・ブリンクリー(河鍋暁斎とも交際のあったことが知られる)が3500ドルと評価された「ミョウチン ムネアキ」作の龍の自在置物を所有している、との記述があり、その龍は越前松平家の旧家臣の家から出たものとしています。越前松平家の明珍の作品に関する異なる話を意図的に混同することにより、佐野常民は古美術の海外流出を戒めるとともに、そうして海外に渡った作品は日本の国威を発揚するものにもなり得る、という両面を効果的に語ろうとした可能性が考えられるでしょう。
またこの明治21年の日本美術協会展覧会には明珍吉久作とみられる龍自在置物も出品されています。この展覧会に先立つ明治15年に、同じく明珍吉久作とみられる龍自在置物一点が松平春嶽により明治天皇に献上されており、日本美術協会が皇室との繋がりを強めていったことを考えるならば、海外で高い評価を受けたサウス・ケンシングトンの鷲と明珍吉久を結びつける狙いがあったことも窺えます。