2023/3/19 追記
この記事についての補遺を公開。「妙珍作の龍と蟹」は塩田真の談話に基づくとみられる。
明治天皇の崩御から間もなく出版された沢田撫松編『明治大帝』(帝国軍人教育会 大正元年)は、その事蹟を記し伝える内容であるが、明治天皇が自在置物に強い関心を持っていたことを示す逸話も紹介されている。
明治十五年に松平春嶽が同家伝来の龍の自在置物を天覧に供するために参内したこと(1)や、明治二十一年の日本美術協会美術展覧会に皇后が行啓した折には同家の龍自在置物、明治二十四年の日本美術協会春期展に明治天皇が行幸した際には、和歌山出身の金工家、板尾新次郎作の「屈伸自在鉄製鷹置物」が「御休憩所」に飾られたこと(2)、また、明治十五年に浅草本願寺で開催された観古美術会への明治天皇の行幸に際し、龍池会から「明珍作鐵製蟹置物」が献上されたこと(3)などは、明治天皇が自在置物に特別な関心を寄せていたことを示唆する例と考えうるものであったが、『明治大帝』で紹介されている「先帝陛下の御逸事」のうちの「妙珍作の龍と蟹」と題した文は、それを裏付けるものとみられる。
以下にその全文を示す。江戸時代に自在置物を製作した甲冑師一門の名として「明珍」とされるべき表記が「妙珍」となっているが、原文のままとしている。
妙珍作の龍と蟹
明治十六年今の美術協會の上野に移る前、日比谷大神宮の社務所に開館されし事ありき。先帝には每年必ず行幸遊ばされしが、此の時作州津山の城主松平確堂候の出品に妙珍作の龍あり、此の龍は長さ七寸位の鐵の打出しにて伸縮龍と云はれ、龍の鱗は一枚々々爪の先まで動き頗ぶる面白きものなりしが、先帝には甚く御意に叶ひしか、御休憩所に入らせられて後も德大寺侍從長にあの龍を今一度持ち來れと仰せられ、熱心に御覽ぜよれしより、佐野會長は確堂侯に申上げて献上の手續きをなせしに陛下は大に悅ばせ給ひ、直ちに其の儘御持歸り遊ばされしが、その後明治十八年築地本顧寺に開會されし折、骨董商某が妙珍作の精巧なる蟹を何處よりか手に入れ大得意にて出品せる折柄、宮內省より電話にて行幸の御通知あり、水盤に花の咲きたる枇杷の大木を活けこの幹の曲りし處に件の蟹を這はせけるが偖愈行幸あり御晝食の折、先帝ふと妙珍作の蟹にお目を止め給ひ御自身お立ち遊ばされてお手に取上げ給ふに、蟹は自由に八本の足を動かす面白さに、殊の外御意に入らせられ御卓子に持歸らせて頻りと、御覽あり「よく出來たもの哉」と幾度も/\仰せ給ふより、會頭は恐懼のあまり、時の宮相土方伯を經て某より進献致さすべき旨申上げしに、陛下には紙にも御包みなくその儘洋服の御隠しにお入れ遊ばされたり、地下の妙珍も感泣の涙に噎ぶならめと今も其の道の人々の語り草となれり。
沢田撫松編『明治大帝』(帝国軍人教育会 大正元年)https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/946470/165
「明治十六年今の美術協會の上野に移る前、日比谷大神宮の社務所に開館されし事ありき」とあるのは、日本美術協会の前身である龍池会により開催された第四回観古美術会のことであろう。この第四回観古美術会には松平確堂が《明珍作鐵屈伸龍文鎮》を出品したことが出品目録から確認できる(4)。文中では「伸縮龍」と表記されている、この龍の自在置物が「先帝には甚く御意に叶ひしか、御休憩所に入らせられて後も德大寺侍從長にあの記を今一度持ち來れと仰せられ、熱心に御覽」になったため、龍池会の会頭であった佐野常民は、これを松平確堂より献上する手続きをし、明治天皇はそのまま持ち帰ったと語られている。また、明治十八年には蟹の自在置物が献上されるに至ったことが述べられているが、これについては、明治十五年に第三回観古美術会への明治天皇の行幸に際し、龍池会から「明珍作鐵製蟹置物」が献上されたという冒頭でも示した話が誤認されたのかもしれない。「時の宮相土方伯を經て某より進献致さすべき」とあるのも、「土方伯」こと土方久元が宮内大臣を務めたのは明治二十年からであることと一致しない。
「妙珍作の龍と蟹」の話が当時の文書に記されたものではなく、関係者の証言に基づくものだとすれば、出版年の大正元年の時点で三十年近く前のこととなり、内容に誤りが含まれる可能性も高かったと考えられる。松平確堂が龍の自在置物を献上したことについても、松平確堂と同じく旧藩主であった松平春嶽が、龍の自在置物を天覧に供するために参内したという話と混同されている可能性もあるだろう。
このように、「妙珍作の龍と蟹」で語られている龍と蟹の献上の話には、当時の事実関係の正確な記述という点では疑問がある。しかし、いずれもその話の元になったとみられる事実が確認できることに加え、「明治天皇が自在置物の面白さに感嘆したことには明珍も感泣の涙にむせぶであろう」ことが「今も其の道の人々の語り草」となっている、と述べられている点に注目したい。つまり、「明治天皇は自在置物を好んでいた」という認識が関係者に共有されていたということになる。これは『明治大帝』出版当時のことであるから、信憑性が高いと考えられる。「妙珍作の龍と蟹」で語られている内容には事実関係の正確さについては難があるとしても、明治天皇が自在置物に特別な関心を持っていことを示すものであると結論づけてよいだろう。
註
- 福井県文書館編『越前松平家家譜 慶永5』(福井県文書館 2011年) https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/08/2010bulletin/shousho8_03.pdf
- 龍自在置物については『日本美術協会報告』(6号 明治21年)、板尾新次郎作の「屈伸自在鉄製鷹置物」については『日本美術協会報告』(41号 明治24年)の記述による。
- 宮内庁編『明治天皇紀 第五』(吉川弘文館 1971年)、明治15(1882)年5月24日の記録。
- 『第四回観古美術会出品目録 第二号』(有隣堂 明治16年) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/849465/22
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