1903年に東京美術学校で開催された「第一回美術祭」では各学科ごとに祭神を定め、遺蹟展覧会としてそれぞれの祭神に因んだ遺作や遺物が展示されました。鍛金科は甲冑師一派明珍家の明珍信家が祭神となっています。『風俗画報』(279号 東陽堂 1903年)に掲載の「美術祭」と題された山下重民の記事によれば、各科で祭神とされたのは以下のとおり。
日本画科 狩野芳崖
西洋画科 ラファエロ
彫刻科 野見宿禰
図案科 尾形光琳
彫金科 後藤祐乗
鍛金科 明珍信家
鋳金科 石凝姥命
漆工科 本阿弥光悦
同記事には遺蹟展覧会出品目録の記載もあり、鍛金科による明珍信家およびその系統品の出品は次のようになっています。
伸縮龍 一個 矢吹秀一出品
兜 一個 東京帝室博物館出品
鐵弓矢透鍔 一枚 同
鐵籠目鍔 一枚 同
兜 一個 和田幹男出品
信家系統品 今村長賀出品
同 前田侯爵家出品
同 秋元子爵家出品
矢吹秀一出品の「伸縮龍」は自在置物とみてよいでしょう。岡倉天心が海外での明珍の作品の高い評価を目の当たりにして感銘を受け、東京美術学校に鍛金科が新設されるにあたり自在置物を製作する板尾新次郎に教師となるよう働きかけた(1)ことを考えると、この美術祭で明珍信家が鍛金科の祭神とされ、自在置物が展覧会に出品されたことは興味深いところです。出品者の矢吹秀一は江戸浅草に生まれ、一橋家家臣の養子となり徳川慶喜に仕えたのち、陸軍軍人となっています(2) 。旧幕臣がこうした作品を所蔵し、このような場で展示したことも、自在置物の当時の国内での評価を輸出工芸品とは異なった面から考える上で注目すべき点でしょう。
笹間良彦『新甲冑師銘鑑』(里文出版 2000年)には明珍信家銘の龍の自在置物の写真が掲載されていますが、この龍の作者の信家については、「江戸時代末期から明治頃 住地不明」「鐔工か甲冑鍛工か不明」となっています。同書によれば、室町時代末期の甲冑工明珍信家は「江戸時代初期に明珍家が、義通・高義と共に明珍家の三名人として喧伝したため、信家を需める者が増え、それに応じて信家の偽作が多く作られた」ため、「有名であるにもかかわらず、経歴も住地も曖昧で、かつ遺物が頗る多い」とのことで、真正の作を判定するための定説もみられないとしています。また、鐔工の信家も存在しており、宣伝により明珍信家が有名になったことで信家を名乗る者もいたとのこと。明珍信家を名乗った自在置物の製作者もまた、その有名さにあやかった可能性が考えられます。
愛知県美術館の木村定三コレクションにも信家銘の蟷螂の自在置物があり、箱蓋表に「拝領品/明珍信家作/奥村家御所蔵」、箱蓋裏の貼紙には信家の由緒が記されていますが、室町時代の信家とは別人によるものとされています(3)。この作品と矢吹秀一出品の遺蹟展覧会出品作、『新甲冑師銘鑑』掲載作が同じ作者によるものかはわかりませんが、これも信家の名がブランドのようになっていたことが自在置物にも影響していたことを示すものかもしれません。
(註)
1.「近代日本における金工家教育に関する一考察 - 帝室技芸員と東京美術学校を中心に - 」
(『茨城大学五浦美術文化研究所報 第13号』横溝廣子 1991年)
2. 近世名将言行録刊行会編『近世名将言行録 第2巻』(吉川弘文館 1934年)
国立国会図書館デジタルコレクション http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223772/180
3. 愛知県美術館『研究紀要22号 木村定三コレクション編』《木村定三コレクション「金属工芸」調査報告目録》
https://www-art.aac.pref.aichi.jp/collection/pdf/2015/apmoabulletin2015kimurap50-156.pdf
「鉄蟷螂」作品情報
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