岡倉天心が出品協力した第6回ミュンヘン水晶宮での第6回国際美術展覧会について、"JAPANESE PICTURES AT MUNICH" と題された当時の記事がありました。
The Japan Weekly Mail 1892.7-12
https://archive.org/details/jwm-bound-1892.7-12/page/529/mode/2up
記事の全文の日本語訳は以下の通り。
昨春このコラムで当時述べたように、ヴェンデルシュタット男爵は当時準備中であったミュンヘン絵画博覧会の委員たちの要請により、日本からの出品について日本当局に申し出ることを快く承諾した。しかし、彼の提案は熱烈な歓迎を受けなかった。こうした問題に関心を持つ日本の官僚たちは、一方では日本の絵画芸術が過渡期にあり、まだその新しい傾向を十分に培って世間の評価を得られるには至っていない一方で、他方では、西洋における日本美術の鑑賞力は、日本の鑑識眼が最も重視する点を理解できるとは到底思えないことを理解していた。つまり、新しい流派は、その初期段階では批判を恐れ、古い流派は西洋の趣味にそぐわないと感じているのである。この臆病さと消極的な態度を如実に物語るのは、ヨーロッパの展覧会に日本の絵画を出品するという試みが、これまで金銭面で失敗に終わってきたという事実である。美術において常に世界をリードしてきたフランスは、かつて日本にとって評価と購入者を得る最も有望な分野とみなされていた。そこで13年ほど前、この国の作品を真に代表する作品をパリに出品するという異例の試みがなされたが、出品作品は全く評価されず、ほとんどが画家に返却された。しかし、その中には狩野探美による傑作、観音菩薩が人間を創造する姿を描いた作品があった。構想と実行において見事なこの絵画は、注目を集め、喝采を浴びるべきであった。しかし、その動機が理解されなかったのか、それとも日本の絵画に共通する欠点、すなわち水彩画の力不足が世間に偏見を抱かせたのか、この絵は買い手がつかず、日本に戻った後、上野美術学校に購入され、現在もそこに飾られている。技術的には薄っぺらで感銘を受けないものの、紛れもなく天才的な作品である。この悲惨な経験は今も鮮明に記憶されており、ヴェンデルシュタット男爵がミュンヘン国際美術展への出品を初めて検討した際に、その影響を目の当たりにした。しかし最終的には、帝国博物館長の九鬼氏と上野美術学校の岡倉教授が協力を申し出、彼らの尽力により22点の絵画コレクションが完成し、バイエルンに送られた。出品作家は、今尾景年、狩野友信 川端玉章、岸竹堂、駒井龍仙、幸野楳嶺、巨勢小石、前田錦楓、森川曽文、尾形月耕、岡倉秋水、鈴木松年、谷口春林、高橋玉淵、田中月耕、梅村景山の計16名。これらの絵画は展覧会で良い場所を与えられていたが、ヨーロッパの絵画との関連性がなかったため、一群として扱われざるを得なかった。最新の情報によると、22点のうち7点が売却済みであるが、それほど高い評価は得られなかったようだ。どのような絵画が好まれたのかを知ることは、興味深く、また示唆に富むものである。 7点の絵画のうち2点は鯉を描いたもので、日本の画家たちが見事に描く題材として、今尾景年と谷口春林の作品である。鳥を描いた2点は、駒井龍仙の「雪中雀」と高橋玉淵の「野鴨」である。玉園の「野鴨」の購入者はバイエルン摂政で、支払った金額は300マルク(約100円)であったが、これはヨーロッパの絵画に比べれば安い金額であった。人物を描いた1点は尾形月耕による「東京の行列」で、非常に巧みな水彩画であり、構成が巧みで、力強さと動きに満ちている。不思議なことに、動物を描いた1点は田中月耕による「兎とツツジ」であり、もう1点は梅村景山による「月光の花の風景」であった。このリストから得られる教訓は、ヨーロッパが日本の画家に対する当初の評価を変えておらず、今でも彼らの最高の作品は鳥、花、魚の描写に求めているということだ。北斎、谷文晁、英一蝶、そして彼らの流派の大胆な作風は、その見事な線の力強さと努力の直接性によって、人物画においても常に高い評価を得るだろう。ミュンヘンでは、尾形月耕の「行列」がその好例であった。しかし、西洋の鑑識眼を持つ人々は、明らかにまだ日本の画家たちのより真摯な業績を期待していない。近代派、すなわち日本のモチーフを西洋の趣味や技法と融合させることを目指した派の二大巨匠、橋本雅邦と川端玉章は、買い手がつかなかったことから推測するに、あまり評価されていなかったようだ。この二人の画家は、1880年の東京勧業博覧会に出品した大作で読者の多くにもよく知られているだろうが、ミュンヘンに5点の絵画を出品した。橋本は風景画3点、川端は海景画1点とリスの絵1点である。これらの絵には確かに多くの優れた点があったが、橋本氏と川端氏が主導する新たな展開について一般的に言えば、日本の規範から大きく逸脱し、新たな観点からの批評を呼ぶほどには至っているものの、西洋画派に十分に接近し、そこで認められる地位を得るには至っていないと言える。この件全体は非常に興味深い。なぜなら、これらの論文とその成果には、日本の絵画芸術の将来に劣らず重要な問題が関わっているからだ。ドイツの鑑定家による批評(もしあったとすれば)を研究する機会はまだ得られていないが、ミュンヘンから個人的に得た情報によると、日本の絵画に対する第一の不満は、ヨーロッパの家庭のどの場所にも合わせられないということである。もしそうでないとしたら奇妙である。日本人は常に自分の家庭環境のために絵を描いてきた。彼らの掛け物、形から表装に至るまで、それは比較的孤立した床の間や、日本室の慎ましく落ち着いた雰囲気にしか適さない。芸術家の調和感覚から、徐々に中間色と限定的な効果への愛着が生まれ、力強さよりも柔らかさを志向した色彩の使用も見られるようになった。こうした流行が芸術にどれほど根付いているのか、本質的な特徴を変えることなくどれほど改変できるのかは、現実的な解決を待つ問題である。ミュンヘンからは、日本の芸術家が何よりも必要としているのは、西洋の最高の巨匠たちの作品を恒久的に研究する機会であり、西洋の芸術家たちが現在も、そして常に目指してきた理想に親しむ機会であるという提言がなされた。これは、東京に古代と現代の巨匠の美術館を設立することによってのみ実現できるだろう。しかし、絵画芸術の発祥地であるイタリアの不況の圧力により、比較的安価な価格で多くの美しい傑作が市場にもたらされたため、そのような目的を達成するには今が特に好機であると言われているものの、日本がその努力を払うとは到底期待できない。現在、日本の芸術発展を公式に指導している人々は、日本が外国の影響に屈することなく、自らの道を切り開くことを決意している。一方、西洋の技法に触れたいと願う少数の奮闘芸術家たちは、あまりにも不況に見舞われ、公的援助も完全に失ったため、すぐに成功する望みは抱けない。しかし、海外からの援助を得られるかどうかは、日本にとって極めて重要な問題である。なぜなら、十分な供給先がないからだ。日本の美術品の大部分 ― ほぼ全てと言ってもいいかもしれない ― は西洋市場向けである。ヨーロッパとアメリカが日本の漆器、磁器、絹、刺繍、彫刻、エナメルを購入する用意がなかったら、これらの美しい工芸品の生産は速やかに終焉を迎えるであろう。日本の絵画芸術も同様の状況にある。日本の趣味とは無縁となり、まだ外国の人々の想像力に大きく訴えかけることもできていない。最終的に、日本はどの方向に向かうべきなのだろうか。
ヴェンデルシュタット男爵が日本からの出品を要請する役割を担っていたことや、日本の当局が出品に前向きではなかったことを伝えています。購入された作品が花鳥画ばかりというのは、1902年ミュンヘン水晶宮年次美術展覧会への出品作品が花鳥画に偏っていた理由になりそうです。その中で唯一、人物を描いたものとして尾形月耕の作品が購入されたのは、その完成度の高さゆえと評価しています。
購入された尾形月耕の作品とみられる図版が当時のドイツの美術誌に載っています。Prozession in Tokio(東京の通り)という作品名も一致します(前後の記事内容は直接の関連はないようです)。
https://play.google.com/books/reader?id=1b5sohC_1BwC&pg=GBS.PA72-IA2&hl=ja
1898年(明治31年)の美術学校騒動の原因に、岡倉天心が文部省当局の心証を害したこともあったようですが、「バイエルン政府博覧会日本画出品に就いての岡倉覚三の無断取扱い」もその要因の一つとして挙げられています。
浦崎永錫 著『日本近代美術発達史』明治篇,東京美術,1974.
https://dl.ndl.go.jp/pid/12418370/1/211
清見陸郎 著『岡倉天心』,平凡社,昭和9.
https://dl.ndl.go.jp/pid/1232448/1/77
京都府からの出品として府庁式場に作品が陳列されたにもかかわらず、竹内棲鳳、菊池芳文らがミュンヘン水晶宮の第6回国際美術展覧会へ不出品となったのも、この「無断取扱い」が関係していそうです。
岡倉天心の東京美術学校校長辞任後の1902年ミュンヘン水晶宮年次美術展覧会への横山大観、菱田春草らの出品にも、このあたりの事情が絡んでいそうです。国内の文献に情報が見当たらないのもそのせいなのかもしれません。
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